[コラム]北海道・余市のピノ・ノワールが直面する気候変動 ― 恵みから試練へ
2025.10.15
北海道・余市のピノ・ノワールが直面する気候変動 ― 恵みから試練へ
かつて「気候変動の恩恵を受けた町」として注目された北海道・余市。しかし今、ワイン用ブドウの名品種「ピノ・ノワール」が、気温上昇や収穫期の豪雨、鳥害の拡大などによって新たな危機を迎えています。日本最北のワイン産地にも、世界的な温暖化の影響が確実に広がっています。
ワイン産地としての台頭
余市町は長らくニッカウヰスキーの蒸留所で知られてきましたが、2000年代以降の穏やかな気温上昇がピノ・ノワールの栽培を後押ししました。とくに注目を集めたのは、地元の「ドメーヌ・タカヒコ」が2017年に生産した「ナナ・ツ・モリ ピノ・ノワール」です。世界的に評価の高いレストラン「Noma」で提供され、一躍その名が知られるようになりました。
当時およそ30ドルで販売されていたワインは、現在では日本の転売市場で約560ドル(約8.6万円)で取引されることもあります。町内には約20のワイナリーと70以上のブドウ畑があり、北海道を代表するワイン生産地としての地位を確立しています。
温暖化がもたらす新たな課題
しかし、気候変動の“恩恵”は長く続きませんでした。ここ数年、余市の平均気温は急速に上昇し、2025年の夏は観測史上最も暑い年となりました。6月から8月の平均気温は22.1度に達し、1991年から2020年の30年平均よりも約3度高くなっています。ドメーヌ・タカヒコの曽我貴彦氏は、「以前はアルザス地方に近い気候だったが、いまやブルゴーニュを超えてボルドーに近い」と話します。
ピノ・ノワールは皮が薄く、日照や雨の量が少し変わるだけで品質に影響が出る繊細なブドウです。気温が上がりすぎると糖度が過剰に高まり、酸味が失われてしまう傾向にあります。近年の余市では、夏の長期化と高温の影響で果実が早熟化し、理想的なバランスを保つことが難しくなってきています。
豪雨と鳥害が生産者を悩ませる
温暖化による影響は気温だけにとどまりません。秋の降雨パターンが変化し、収穫期に豪雨が増えています。ヒロツ・ヴィンヤードの広津雄一氏は、「今年はピノ・ノワールに加え、ツヴァイゲルトレーベが9月の大雨で大きく傷ついた」と語ります。房ごとに傷んだ実を一粒ずつ取り除く作業に追われたといいます。
さらに深刻なのが鳥害です。山の木の実や種子が減り、ブドウ畑を狙う鳥が増加しています。町内では爆竹の音が一日中鳴り響き、農家が果実を守るために奮闘しています。生産者の間では、これもまた気候変動による生態系の変化が影響しているとみられています。
変わる気候帯と将来への不安
ワイン産地の気候は「ウィンクラー・インデックス」という指標で分類されます。これは4月から10月までの平均気温から10度を引いた積算値(GDD)をもとに5段階に区分され、最も冷涼な「リージョンI」から最も温暖な「リージョンV」までがあります。余市はこれまで最も冷涼なリージョンIに属していましたが、2023年以降はリージョンIIの範囲に入りつつあります。
この変化は、ピノ・ノワールのような冷涼品種にとって厳しい兆候です。リージョンIIは、一般的にメルローやカベルネ・ソーヴィニヨンなど、やや温暖な地域で育つブドウに適しています。つまり、余市はすでに「ピノ・ノワールに最適な地域」から脱しつつあるのです。
気候変動に挑むワインの町
余市町は、フランス・ブルゴーニュ地方のジュヴレ・シャンベルタン村と「ワイン協定」を結び、気候変動下での栽培技術や醸造法の知見を共有しています。町長の斉藤圭祐氏は、「変化に対応しながらも品質を守ることが今後の課題」と語っています。
ドメーヌ・タカヒコでは温度や湿度の変化に対応するため、最大100樽を保管できる地下熟成庫を新設しました。こうした取り組みは、気候の不安定さに対応しながら品質を維持するための重要な一歩となっています。今後はピノ・ノワール以外にも、メルローやシラーといった温暖な気候に適した品種への移行も検討されています。曽我氏は「ピノ・ノワールがこの町の最終目標とは限らない」と語り、次のステップを見据えています。
気候とともに変わる余市の未来
気候変動は、地域に恩恵をもたらす一方で、わずか数十年でその環境を一変させてしまうほどの力を持っています。冷涼な風土と生産者の努力が育んだ余市のワインは、今まさに「共生」から「適応」へと向かう転換期にあります。
フランスとの技術交流や設備投資、品種多様化への試みなど、余市の取り組みは日本のワイン産地全体にとっても貴重なモデルケースとなるでしょう。気候とともに歩むワインづくりの道は決して平坦ではありませんが、余市の挑戦はその先にある新たな日本ワインの可能性を示しています。
※本記事の数値や証言は報道時点の情報に基づいています。最新の気象データやワイナリーの取り組みは、公式発表などでご確認ください。
参考:A Japanese Pinot Noir town blessed by climate change now worries about the weather